汚名を着せられて無念の死を遂げた「橘逸勢」の苦悶
鬼滅の戦史118
その後、早々に良房が仁明天皇に上告したことで、万事休す。逸勢は謀反の罪を被せられて、伊豆へ流されてしまったのである。姓まで非人と改められたというから、何とも無情。
さらには移送の途上、遠江国(とおとうみのくに)板築駅(浜松市北区三ケ日町あるいは袋井市上山梨)に差し掛かったところで病没してしまった。自分が一体何をしたというのか? ただ皇太子の身を案じて安全なところにお移ししようとしただけなのに…と、悔しさが増すばかり。恨みに満ちた面持ちで死んでいったのだろう。
「八所御霊」として恐れられた存在に
案の定、化けて出た…と、当時の人々は、本気で信じたようである。具体的にどのような祟りを為したのかの記録は見当たらないが、この頃頻発していた地震などの災害や飢餓、疫病などがそれに当たるものとみなされたようだ。この世の終わりかとまで恐れられた彗星(すいせい)や白い虹の出現まで逸勢の祟りのせいとみなされることもあるが、果たして?
ともあれ、その後、京都市中京区にある下御霊(しもごりょう)神社などで、崇道(すどう)天皇や伊予(いよ)親王らと共に「八所御霊(はっしょごりょう)」として祀られたようである。三大怨霊の一人に数えられる崇道天皇と肩を並べるほどの怨霊とみなされたわけだから、転じて御霊となった鎮護の神の霊力が格別だったと信じられたに違いない。
ついでながら言うと、この事件の後、藤原良房の目論見通り、道康親王が皇太子となったことで、良房はその外伯父となると共に、大納言に昇進している。
また、前述の「逸勢の従姉妹であった嘉智子が、なぜ良房に情報をもたらしたのか」の件であるが、これは、うがった見方をすれば、嘉智子が良房と共に道康親王擁立という面で利害が一致していたところから、二人が共謀して企てたものだったと考えることもできそうだ。それにしてもこの辺り、何やら闇が深そうである。
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